カテゴリー「小説」の記事

2009年11月 9日 (月)

東野圭吾著「新参者」を読んで

 加賀恭一郎が主人公の作品との出会いは「赤い指」以来となります。 ここでは江戸情緒が残る日本橋に「新参者」として赴任してきた、所轄の刑事で登場します。

 この作品は全9章からなりますが、ひとつひとつの章に殺人事件の周辺でおきたエピソードの謎解きの妙があります。そしてそれらが最後はひとつにつながるように構成されており、なかなかおもしろい章立てになっています。

 しかも殺人事件をあつかいながらも、ほほえましく感じたり、人情にほだされたりして読後感はいたってさわやかです。犯罪者を見事な推理で追い詰めていくミステリーを期待する読者には、物足りなさがあるかもしれませんが、どこか時代劇を思わせるような、暖かい市井に生きる人たちの息づかいを感じさせてもらえる作品です。

 加賀恭一郎もその中で、「事件を捜査するのが刑事じゃない。事件によって心が傷付けられた人がいるのなら、その人だって被害者だ。そういう被害者を救う手立てを探し出すのも刑事の役目だ」と言っているように、刑事の嗅覚とともに心の感度も高くして、人知れずかかえる悲しみや喜びを明らかにしようとしていきます。これまた、遠山の金さんのような雰囲気を感じとってしまいました。

 とにかく、ガリレオシリーズとは全く趣を異にして、科学でではなく、人間の心のありようで事件を解き明かしていくというテイストの作品になっていました。

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2009年1月 6日 (火)

東野圭吾著「聖女の苦悩」を読んで

 昨年に同時刊行されたガリレオシリーズ「ガリレオの苦悩」「聖女の苦悩」を続けて読みました。テレビドラマと映画の影響で、内海薫は柴咲コウが喋ってるように思え、湯川学は福山雅治が喋ってるように思え、登場人物のイメージが自由にならなかっのが難点でしたが。ここでは長編作品の「聖女の苦悩」の感想を書きたいと思います。前作の「流星の絆」のような劇的な展開はあまり無く、どちらかというと心理劇を観ているような感じで、とりわけ女性心理を女性刑事の内海薫の鋭い感性で明らかにしていくことにおいて、秀でた作品だと思います。それも、作者の女性に対する深い観察力のなせる技なんでしょう。しかも最後には有り得ない心情の風景をガリレオこと湯川先生により、つまびらかにされるこで、そんな世界もあったのかと思う気分になれました。とは言うものの、トリックにおいては確かにユニークさはありましたが、犯罪を構築しようとする心理においてやっぱり不自然さはぬぐいきれませんでした。きっとそれは長編小説で、読み手に深く考える余裕を与えてしまったからではないでしょうか。たとえば「毒盛る」といったようなタイトルで短編にした方がよりおぞましさを感じることができたように思うのですが。

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2008年11月 1日 (土)

重松清著「その日のまえに」を読んで

 今日から公開される映画「その日のまえに」の原作。

 著者である重松清の小説は数多く読みましたが、書店の棚に並ぶ重松清の本の中で、「その日のまえに」だけはどうしても手が伸びませんでした。それは自分自身がかつてガン患者であり、今もなお検査、通院の日々を送っているからに他なりません。できるだけ忘れていたいと思うことを、あえて呼び覚ますことはないと感じるからです。しかし、今回意を決して読もうと思ったのは、やはりそれが重松清の作品だからと言わざるを得ません。
 
 7編の作品から構成されていますが、中心となるのは「その日のまえに」「その日」「その日のあとで」の三部作です。妻の余命宣告を受けた夫の視点から、残された日々の生活、死を迎えたその日のこと、そして妻のいなくなったその後の家庭のたたずまいを描いていきます。その中で一番心に残るのは「その日のまえに」です。絶望的な状況になった二人は、涙が涸れるまで泣いたあと、「その日」までの残された日々を「日常」として生きていこうとします。死と向き合うことが「日常」ということほど、悲しく残酷なことは無いと思いますが、最後まで準備しなければならないことを考えて生きることが、ひとつの「生きがい」にまで高められていくような気がしました。さらにそれは、死と向き合う必要の無いつまらないと思えるような「日常」が、どれほど大切なものだったかを知ることにもなります。二人はそれを確かめるために、初めて生活を共にした小さな町を訪れ、つつましかったけれども幸せだった日々を心に刻んでいくのです。最後に登場する看護師さんが「自分の生きてきた意味や、死んでいく意味の答えなどありません。ただ、それを考え続けることが答えだと思います」という言葉が、今の僕にもその通りであるように思えました。やっぱり読んでよかったです。

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2008年9月 7日 (日)

重松清著「気をつけ、礼」を読んで

 学校の先生にまつわる話を集めた短編集。各作品に登場するどの教師も、金八先生のような熱血的な教師や、教え方のうまいカリスマ的な教師ではありません。むしろ、教育より自分の好きな世界にこだわって生きているような先生達。どうしてもニールヤングをギターで歌いたい先生、画家として生きたかった先生、授業よりも野球に打ち込む先生などで、今なら不的確教師の烙印を押されてもしかたがないような先生が多く登場します。しかし生徒の時にはわからなかった事でも、大人になったときに初めてその先生の生き方が、せつなさと共に、胸に迫ってくることを描いています。中でも一番感動したのは「泣くな赤鬼」です。選手として切り捨てたはずの教え子が末期ガンの中で、「先生にほめられてうれしかった」と心を明かし、 育てることより選ぶことしなかった先生が初めて人間として向き合えるという胸を打つ話です。学力を向上させるられる教師ばかりがもてはやされる時代ですが、大人になって生きることにつまずいたとき、不器用だけど何か人間臭い先生の存在を思い起こすことが、力を与えてくれることもあると思いました。指導力不足教師は職をはずせとさけばれていまが、自分の生き方を見せられる教師との違いを誤ってはいけないと思います。

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2008年7月27日 (日)

重松清著「季節風 夏 僕たちのミシシッピーリバー」を読んで 

 「季節風・春」に続く、季節の情景を描いた短編集の夏編。

 春編では別れ、出会い、出発などがおもなテーマになっていましたが、この作品では、梅雨、七夕、風鈴、高校野球、夏休みと夏の風物詩を背景に、12編の切なくも静かに燃える命と、人々の生き様が綴られています。その中でも亡くなった息子の嫁が再婚することになり、孫をつれて家族としての最後のあいさつに来る「あじさい、揺れて」、母親の再婚に複雑な思いを抱きながら亡き父への思いを七夕にたくす「ささのは、さらさら」、ガンで余命一月と宣告された父親が最後の力を振り絞り、息子と船の工作をする「タカシ丸」の三編が深く胸を打ちました。本当はわかっていることなのだけれども、それらを押し包み互いに気遣い、それでも結局は、別れを迎えねばならない家族の優しさや悲しみに涙があふれてきました。

 最近、家族にまつわる悲惨な事件が頻繁におきていますが、言わずともわかり合え、自然な愛情以外互いに多くを求めない関係が一番いいように思えました。

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2008年7月21日 (月)

「蟹工船」を読んで

 社会的現象ともなっている「蟹工船」ブームが気になって、学生の頃読んだこの作品をもう一度読み直してみました。そのころは「プロレタリア文学」という文学史的な意味合いでしか読んでなかっような気がしますが、再読してなぜ現代にこの作品がもてはやされるのかを考えてみました。

 ひとつには理屈ではなく、著者の小林多喜二の全感覚をもって、労働者の過酷な状況が描写されているからに他ならないところです。臭い、音、動き、光などを通して読む者が、まさに奴隷工場のような有様をリアルに体感できるように思えます。二つ目は登場する労働者が名もなき群衆として描かれているところです。どこにもヒーローは現れず、ただどうしようもない気持ちが行動を突き動かしていく姿に共感できるように思えます。もう一つは、なぜこのような目にあわねばならないのかを、資本家、国家、軍隊からなる資本主義の構造をわかりやすく指摘しているからだと思えます。
 
 この作品が世に出てから80年近くがたっています。今や憲法や労働基準法で人間らしい労働が保障されているにもかかわらず、新自由主義の名の下に格差が拡大し、ワーキングプアや派遣労働者の問題が噴出しています。労働者は未だに幸福に働けていない現状だからこそ、「蟹工船」は読まれているのでしょう。小林多喜二は共産主義に向かいましたが、これからの社会は果たしてどこに向かっていけばいいのでしょうか。

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2008年6月29日 (日)

東野圭吾著「流星の絆」を読んで

 流星観察に出かけた子どもたちを待ち受けていたのは、洋食店を営んでいた両親の惨殺姿だった。成長した3人は詐欺業に手を染めていたが、そのターゲットとの接触の最中に、事件の夜に家を出て行く犯人の姿を目撃していた弟が、ついによく似た男を発見する。その男は現在、洋食店を手広く経営している社長で、かつて彼らの父親が作っていた「ハヤシライス」と全く同じ味のハヤシライスを売りにしていたところから、犯行との関連性に気づいた三人は、様々なしかけで犯人を追い詰めていこうとするのだが・・・・。

  「洋食屋」というどこかノスタルジックな雰囲気を醸し出す言葉が、この作品のキーワードになっています。物語に登場してくる「ハヤシライス」を無性に食べたくなってしまいます。食べ物が事件の鍵を握るという意味では、東野作品ではめずらしいようにも思えました。またお得意の理詰めのミステリーではなく、詐欺業の顛末はどちらかというとユーモア小説のジャンルに入るようでもあるし、謎解きの妙を期待させる意図では書かれてはいない気がします。むしろ3人兄弟の深い結びつきを横糸で張りめぐらし、人間の善意と悪意をぶつからせることのおもしろさをねらったのではないでしょうか。ただ展開が強引すぎて、不自然に思うところが多々感じられたし、主人公達よりも、犯人として追い詰めていた経営者の息子を、あまりにもカッコ良く描きすぎているようにも思えました。

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2008年5月 3日 (土)

重松清著「ツバメ記念日」を読んで

 芽吹き、巣立ち、別れ、出会い、さまざまなことを予感させる春という季節に、家族におこるエピソードを綴った短編集。
 
 どの作品においても重松清にかかれば、ささやかな出来事さえとてつもなく、かけがえのないものに感じさせてくれます。それだけ、人の心に根深く共感できる力があるのだと思います。
 
 12編の作品の中では、かつて、母親が工面して買ってくれた小さなおひな様を、捨て去りがたく思う「めぐりびな」や、満開の桜の下での小学校入学を楽しみにしていたのに、その夢を果たせず交通事故で死んだ息子のために、建立した地蔵に桜の花びらを毎年ふりかけ続ける父親の話を描いた「さくら地蔵」、家庭と仕事の両立のせめぎ合に、危機的な状況になった夫婦を救った親ツバメの話「ツバメ記念日」など泣かせる物語も多いのですが、やっぱり一番の真骨頂は、「拝啓、ポンカンにて」「島小僧」「ジーコロ」など家族や故郷と別れて都会に出かけていく若者達の話です。きっと故郷の中国地方を出て東京の大学で学んだ重松清自身の経験が、色濃く反映されているのだと思います。気強く送り出しても、こどものいなくなった部屋をみるとわきおこる親の寂しさ、一人住まいの都会の生活にあこがれながらも、なれない生活にホームシックになる子どものやるせなさ。でもそれらを乗り越えて、人は新たな春を迎えるのだと作者は言っているように思えました

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2007年12月 8日 (土)

東野圭吾著「ダイイング・アイ」を読んで

 以前雑誌に連載された小説の、ほぼ10年ぶりに単行本化された作品。東野圭吾の交通事故をテーマとした作品群の一つになると思われますが、ホラーというかオカルト的な要素が異彩な感じを放っています。雨村慎介は、ある夜何者かに襲われ、過去の交通事故の記憶を失ってしまう。その後、慎介の目の前に瑠璃子という不思議な女性が現れて・・・。

 8割までが例によって様々な伏線が蜘蛛の巣のように張りめぐらされ、最後に瑠璃子の正体があきらかになったとき、ダイイング・アイの意味することが、一種の俗な言い方をすると身の毛がよだつような感じで解き明かされます。東野圭吾は単に手の込んだミステリー作品を描くだけではなく、時にしてその中に社会的なメッセージが織り込まれることがあります。この作品にも「年間1万人の交通事故死者がいることは、それに近い数の加害者も存在するはずだ。彼らはたぶん意外に軽い量刑にほっとしながらも、ただひたすら自分におきた災いを忘れようとしているのだろう。そして加害者が忘れることで、被害者は2重に傷つけられる」という言葉に表されているように、被害者の目線に立とうとした意図からこの作品は生まれたように思われました。
 
 ただたくさんの伏線を張り巡らした割には、その伏線が消化不良なままで生かされてこなかったものも多くあり、トリックにしてはちょっと強引な感じが否めませんでした。

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2007年7月15日 (日)

重松清著「カシオペアの丘で」

41en2b82am1l_aa240_1  最近、重松清の作品は「哀愁的東京」とか「小学5年生」とかの短編ばかり読んでいたので、「カシオペアの丘で」が久々の長編小説ということになります。短編の場合は何気ない日常の中にひそんでいる、家族愛や人間の生の営みを切り取ってみせるという作風でしたが、この長編小説は「大空に輝き続ける命の物語」と本の帯のコピーにもあるように、一種の宗教的な命題とも見まがうばかりの、叙情詩風のドラマ仕立てになっています。
 
 シュン、トシ、ミッチョ、ユウちゃんいう4人の幼なじみが、かつて満点の星の下カシオペアの丘で未来を語り合ったように、大人になった彼らが今度はそれぞれの過去に、勇気を持ってまっすぐに向き合っていくというストーリーです。その中心となるのが、友人が障害者となってしまう原因にかかわり、自らも末期ガンにおそわれるという二つの十字架を背負ったシュンこと俊介です。そのシュンが最後の瞬間に、捨て去った故郷にもどり幼なじみに許しを請おうとする姿が痛ましい。それでも救われるのは、ミッチョこと美智子が語る命の星の話です。死んだ星の輝きが地上に届くように、死んだ人の命も生きていてる人の思いによって夜空に輝くのだと。人は誰もたがいに傷つけ傷つけられ、そして許し許されて生きていくことの中に幸せがあるのだと、作者が言っているように思われました。それはこの作品にしばし登場するメリーゴーランドの木馬が、上がり下がりしながら天井(天空)の下を周り続けるように。そしていたるところに「生きるとは」「死ぬとは」「愛するとは」などさまざまな言葉が散りばめられ、心を揺さぶる感動的な作品になっていました。

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